One Last Kiss(少しだけ)

宇多田ヒカルの曲について、タイアップした他の作品との関連も含めて書ける範囲で書きたい。私はエヴァ作品に詳しくない。しかしエヴァとの関係を避けて書けるものではない。でも書きたいから書くわ~~~~~!書いてるうちにインスタライブあって、そこで語られた言葉はまだふわふわとしていて早く感想言いたいけど言葉にならん。ずっとずっと前に生まれた小説や歌や詩や史実がずっと後に生まれた私に届く。

 

One Last Kiss

タイトルについて。最後のキス。キスと言えば多分劇場版のエヴァより前の作品でキスシーンがあったはず。そのシーンが立ち現われてくるのかな。

 

初めてのルーブル

ルーブルはフランスの首都パリにあるルーヴル美術館。『モナ・リザ』を所蔵している美術館である。『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』(以下、シン・エヴァ)の序盤の舞台はパリであり、そこで戦闘が繰り広げられる。美術館の建物であるルーヴル宮殿はもともと要塞として使われていた城であり、AAAヴンダーが砦のように用いられている。ここでは日本語での発音に近い「ルーブル」と表記されており、曲での発音も日本語の音として発音されていると思われる。夢から覚めたような、はっとするような現実に帰っていくような物語のエンディングに、歌詞の始まりの音に「ハ」が当てられていて、息を吐く音とともに止まっていた時間が動き出したような印象を受ける。

 

なんてことはなかったわ

 女言葉を敢えて遣う時、おどけて遣っているように聞こえることがある。女言葉を使う時普段の自分とは少し異なる自分を演じているように感じる。それは上品さだったり、上品さの皮を被った道化のようであったり、物語の登場人物のように、演技するように、何か見せたいイメージを演出するための技巧として用いる。それは、素顔を隠す仮面のような《配役》を連想させる。ここで語り手は《女言葉を使う》という属性を与えられている。

一応、脳内で関西方言で再生してみた(筆者は関西出身)。このフレーズを方言として発声することは可能であるが、敢えて方言で記述する意図を読み取るのは難しい気がする。関西弁のキャラクターが言ってるのを想像している、ということも考えられる?

日本的な《女らしさ》を押し付けられることを苦手と感じていたであろう彼女がそれを逆手にとって女性的な言葉を使う時、それは言い聞かせるような母のような、姉のような、彼女のような、女であることを前提とした役柄を演じている言葉だと思う。のっけから否定して、次に来る言葉の価値を飛躍的に高めている。ただの韻合わせだと思う人もいるかもしれない。ただの韻合わせだと私は思いたくない。

ルーブル美術館という巨大な美の蓄積された場所を「なんてことはなかった」と言ってのける/言い切る豪胆さを感じる。更に女言葉で台詞調となっており、《役》を演じることで、自分に言い聞かせているようにも取れる。

 

私だけのモナリザ

もうとっくに出会ってたから 

 モナリザは言うまでもなくレオナルドダヴィンチの描いた『モナ・リザ』で、微笑を湛え、世代を超えた人々を惹きつけてやまないヴィーナスの象徴である。多くの人々を惹き付ける『モナ・リザ』に対して、ここでは「私だけ」という、真逆のヴィーナスの存在へとスライドさせている。

感動するはずの場所、シチュエーションで、想像していたより揺さぶられることがなかった。『モナ・リザ』が与えてくれたであろう感動は「私」にとっては既知のもので、それを塗り替えるような感動は呼び起こされなかったのだから。

切なくなるほど私の全てを包容してくれるような笑みを私に向けてくれる人は

なぜ?と自分に問い掛けているようにも思える。

 

初めてあなたを見た

あの日動き出した歯車

止められない喪失の予感 

 「初めて」でモナリザを見た時と「あなた」を見た時とを重ね、「あなた」との出会いを思い出している。

素直に普遍的なテーマに引き付けてみる。人はいつか死ぬ。出会いには必ず別れがついて回る。始まってしまった舞台は幕が下りるまで動きを止めることはないだろう。ゼーレのシナリオという演目に、「運命の歯車」という慣用句を想像させ、登場人物達が歯車そのものであるようだし、「歯車」という言葉に舞台装置を連想する。監督も宇多田も関係者全てが役者であるかのような解釈される余地を産む。永遠に絵の中に生きるように見えるモナリザと、既に失われている(この時点では不確定)/「喪失の予感」を覚えている「あなた」の対比。

 

ユイと出会ってしまったが故に、ゲンドウは喪失を知る。

自己の存在故に、碇家を目にした故に、本来自分にもあるべきはずの親の存在を想像し、喪失を感じて生きるアスカ。

エヴァに乗ることを自ら選んでいるようで選ばざるを得ないシンジを知ってしまったが故に、身代わりになる以外の選択肢がなくなった綾波

 

もういっぱいあるけど

もう一つ増やしましょう 

(Can you give me one last kiss?)

 忘れたくないこと

()を飛ばしてそのまま読めば、もういっぱいある「忘れたくないこと」をもう一つ増やしましょう、と読める。()内をぎこちなくも日本語に置き換えると、最後のキスをくれる?最後にもう一度キスして?と言えるだろうか。()内を地の文と結びつけると、「もう一つ増やしましょう」と言っている《最後の》「忘れたくないこと」は「(one last )kiss」である。「もう一度」というニュアンスから、これまでに交わされた数えきれない/「私」にとってはそもそも数えないような日常的な行為であろうキス、またそのような行為をする関係が背景として立ち上がってくる。「忘れたくないこと」=キスではない。「あなた」との/「あなた」に関しての「私」の持っている数々の思い出=「忘れたくないこと」であり、あくまでプラス1、幸福な思い出を追加しようという提案である(懇願のようでもある)。曲の軽快なリズムも重なり、湿っぽい濃厚なラブロマンス的別れのキスではなく、もっとあっさりしたキスだよね。この後やることあるし、急かしてるわけじゃないけど、時間は限られている。悲壮感のない笑顔でキスしよう?って。晴れやかでポジティブなキス。相手に罪悪感を背負わせない別れの正解ってこういうことなのかな?

ここで『First Love』の歌詞「最後のキスはタバコのFlavorがした」と結びつけるのは強引な気がする。葛城ミサトは煙草を吸うし、シンジとキスするし、重なるけれど、それは一瞬で、「なーんかあの時のこと思い出しちゃった」みたいなものだとしたらありだと思う。

地の文と()は分けられており、前者は独白のような意志表明であり、()内は相手を想定した問い掛け、そして実際に口にすることはない言葉、言えないけど言いたかった言葉として響いているように思う。

 

Oh oh oh oh oh...

忘れたくないこと

Oh oh oh oh oh...

I love you more than you'll ever know 

 Aメロ→Bメロ→サビへと移るにつれ、具体的な事物から抽象度が上がっていくような構成。具体から抽象へ、帰納的な展開。

速めのテンポに合わせた息継ぎのような部分。本当に言いたいことは言葉にならない。あなたに本当に伝えたいことは、言葉にしてしまうと途端に陳腐で嘘くさい。愛の歌は、こんなふうに歌うんだと。歌そのものの、歌が剝き出しの部分。Bメロから既に体を揺らしてしまうのだけれど、「Oh oh oh oh oh...」サビは踊りだしたくなる。舞い上がってしまうような心地。

 

「写真は苦手なんだ」

ここで「」が使われていることで、この部分以外が全て発話ではないという可能性が出てくる。()内は直接語り掛けた言葉ではなく、心の中で語り掛けた言葉であると区別できる。ここで「」内は実際に発話された言葉で、()内は伝えたくても伝えられなかった言葉/「私」が内に秘めた言葉と読み取ることもできる。

 

でもそんなものはいらないわ

ここで1の歌詞と同様に女言葉。女言葉なのか?例えば「いらないや」では違うだろう。男と女の会話のようにも取ることができるが、上記の歌詞のみ「」で括られている。誰かの語りを思い出して後から(或いは対話ではない形で)否定している。

 

 

あなたが焼きついたまま

私の心のプロジェクター

そもそも男が女言葉を使ってもいい。そこは、誰の言葉なのか、誰の視点なのかはあまり重要ではない気がしてきた。覚えておきたい言葉を聴いた時、脳内に焼き付けたとか心のレコーダーに録音したとか言うけれど、宇多田流にここではこう表現したということだろう。ここではただ単に嬉しくて、というよりなんの感情も見出せない。写真を撮りたい、何か形にして残したい、生きた証みたいなもの?あなたといた時私にあなたが見せてくれた表情を?写真じゃなくていい、ずっと消えないで残っているいて、いつでも再生可能なのだ。

 

寂しくないふりしてた

まあ、そんなのお互い様か

ここでもやっぱり特定の誰かが想定されている一対一の関係として描かれる。過去形。終わってしまったことを振り返り、さっぱり諦めに似た言葉で締めくくる。

 

誰かを求めることは

すなわち傷つくことだった

前述の「お互い様」な二人について、或いはそこから離れた格言めいた言葉。誰かを求めるほどに自らの孤独がより浮き彫りになっていく。「一人で生きるより 永久に傷つきたい」(誰にも言わない/宇多田ヒカル、2020)と傷つくことをよしとする言葉と地続きに、誰かといる/近づこうとすることは他者がより一層他者であることを知ることに他ならない。連想するのはDistance(宇多田ヒカル、2001?)で、(theyにあたる日本語の三人称ってなんて言うのだろう)宇多田は長く自他の距離をいろんな形で書いている。Distanceでは相手の孤独を埋められない事実と寄り添うことはできるという苦しみを見つめるしかない遠い距離を感じるけれどそばにいるよという愛を歌っているとするなら、One Last Kissは主体が他者を求めていることにより自覚的である。主体が自身の傷に自覚的にであること、そのことを勇敢にも明言していること。このことに泣きたくなるほど愛しさが込み上げてきてより読者(聴き手?)である私に近しみを抱かせる。孤独を感じているのはこの文の主体。そこまでさらけ出してくれるんだと、心の声を聞いたような感覚。描き方の違いもはっきりしているし、もう少し丁寧に書くべきだが、乱暴にも繋げると、孤独と他者との距離というテーマ(他にもっと良い言い方があるかも?)に沿って見ると、明らかに『Distance』以上に主体の深い内省を描き、『誰にも言わない』以上に主体の心境との距離が近い。口に出して言いたいこと/伝えたいこと、より心の裡に思っていることに近いという感じ。雑に書いてしまっている気がする。『Distance』『誰にも言わない』について改めてちゃんと書かないと雑なままだ。私はそれぞれをそれぞれ愛している。ファンの皆様もそうだろう。許してほしい。

この歌詞の意味を認識した時の衝撃といったらない。確信と諦めと過去形と事実と認識と、エヴァと、宇多田と、煮るなり焼くなり好きにして。多分私は何もわかってないと思う。

 

燃えるようなキスをしよう

この後またサビの前のメロディーがきて、盛り上がっていくのだけれど、血とか、熱とか、爆発とか、怒りとか、喜怒哀楽とかちゃんとした(ちゃんとした?)感情とか、相手からも返してほしいという要求であり提案であり懇願であるようなイメージを抱いた。どんどん盛り上がっていく曲に乗ってお通夜みたいなくせに楽しい気分になる泣き笑いしたくなる。

キスって二人いないとできない?それとも一人でもできる?椅子やリンゴには人一人でもキスできるけど、「燃えるようなキス」は二人以上いないとできない気がする。だからここではそう解釈する。ていうかずっとミサトさんのこと考えてる。カラオケで何度も見たシーンが一番思い出されるからかな。「燃えるようなキス」だけだったらBe My LastのMVのカップル役の二人のキスシーンを思い出した。関係ないかもしれないけど。

血とか書いたけど、もしかして全然違って、相手に熱が移るようなキスのことか?冷たい唇に熱が移って燃え出すような。それもちょっと飛びすぎか。

 

MV良すぎる問題についてとか曲のリズムの話とか音楽的なところはよく分かってないから音楽家、プロデューサー、編集者、演出家としての宇多田ヒカルについて私は書くことができない。なんか最高としか書けない。歌詞のことばかり、私じゃなくても書けるものでしかないのかもしれないけれど、備忘録的にも書いていきたい。シーツか毛布被ってオバケの仕草するところめちゃくちゃ好き。

 

注記

私はエヴァーについても、宇多田についても、濃ゆく詳しくはありません。宇多田の作品が好きなファンの端くれです。間違いも多くあるかもしれません。