書き始めメモ

宇多田ヒカルが好きだ。

こう書いたら、宇多田ヒカルの曲が好きなんでしょ、と言われるかもしれない。おまえは宇多田の何を知っているんだ。何様だ。何者だ。私もそう思う。ただの一リスナーだ。しかも、かなりライトなファンだ。宇多田について語る資格とかは特に見当たらない。インスタライブはリアタイしてないし、宇多田が紹介してた本は読んでないし、曲は全然聴かない時期もあるし、全然聴かない曲も聴いたことがない曲もあると思う。それでも私は宇多田の作る曲が好きで、《宇多田ヒカル》が好きで、《宇多田ヒカル》を作り上げている宇多田光本人もたぶんきっと大好きだ。この人が同じ時代に生きていてくれて嬉しい。この人の作品を聴けて嬉しい。できることなら友人になりたい。叩かないで!!!誰しも夢見ることは自由である。OK、憧れや崇拝は友と呼べる存在から最も遠い。尊敬はしても崇拝はしない、分かってるただのファンは友人にはなれない。本当に?てか私は宇多田ヒカルの夢女か?今のところ多分違うと思う。私は地味に地道に私の生活をすることが友となり得る最大限の可能なアピールだ。本当に?もっと読んだり咀嚼してから書くほうがいいんだろうと思う本当に。曲のインスピレーションは宇多田自身の生活や人生から無理なく紐づけられる部分もあるだろうし、TwitterInstagram、インタビューなどから垣間見える部分も心底楽しみにしている、だけれど誰とどんなふうに曲をつくってきたのかとか、肝心なところを私は全然知らない、足りてない。網羅的には書けないし、全くの的外れかもしれないけれど、たどたどしくとも今書けるだけを書いてみたい。好きな人の、好きな作品の話がしたい。

 

宇多田ヒカルが曲から書いて、歌詞を後から音に合うものを選んで乗せていて、音やリズムのほうをきっとまず第一に作り上げているだろうと知ってなお宇多田の歌詞は私にとって特別である。私の音楽の造詣は浅く、尽くす言葉を知らない。なんじゃこの後ろで繰り返されてる物悲しいピンポンパン…て鳴ってる音最高~!明るい感じからだんだん最後不穏な感じになっていくところゾクゾクするぜ…!くらいしか言えない。でも歌詞が美しい、歌詞が刺さると思う時、このメロディー、このリズムと、全ての要素が合わさって私の胸に響いていると思う。明るい曲調に痛みを伴う言葉を、哀しいメロディーにやさしい言葉を乗せて、揺さぶられるようにして、ぼんやりしていた感情/記憶が揺り起こされるような気がする。悲しみを悲しみのまま作品にしようとしたら、それは嗚咽そのもので、曲の形をしていないだろう。そうではなく、宇多田の作品は作り込まれた創作物だ。歌詞は音が曲のなかで言葉に整形され、歌詞カードに載せられてや曲そのものの補助的に提示される。曲自体が本体だと分かっていても、まるで歌詞そのものがもう一つの本体であるかのように、貪るように読んでしまう。このブログで書くことはどうしても歌詞にばかり偏ったものになると思う。

曖昧で停滞した状況、不明瞭にされている自他の境界、霞のように名ばかりの概念に、時に軽く飛び越え、時に明快な線を引くような歌詞は、痛みを伴って私に自覚を促す。嵐の中を抜け出した者だけが辿り着く言葉に、遥か先を歩く存在を思う。宇多田の歌詞は格好良くてちょっとおどけてて、お茶目で、違和感もバランスも素敵だ。私にも分かる言葉で、私にも分かる(はずの)感情を、受け入れられやすい形で(でも不自然さや違和感も感じる、その引っかかりが心地いい)歌詞に落とし込まれている(タイアップ曲とかは、より明快なテーマが削り出されているようなシンプルさを感じる。対するアルバムのみ収録曲はより詩的で難解で、面白要素も多い気がする)。悲しみや痛みを知る人の顔をしていて、取り繕っていないのに演じられていて、嘘は一つもないけれど創作物で、だから絶対に私からは触れられない領域が向こう側に存在していることを感じる。生身の私と作者との間に遠く隔たりがあって、曲は物質じゃなくて手に取ることはできなくて、ほんのひと時寄り添えたと思ったらすり抜けていくようで、永遠に距離が縮まることはない。でもいつだって聴ける。こんなに私と遠くて、私に寄り添ってくれる歌は他に知らない。

 

私は宇多田をもっと知りたい。だけど、宇多田の創作物がいつでも聴けて、既に今知れる手がかりは全て提示されているとも思う。あらゆる手掛かりを読み尽くさずに語るのはリスペクトが足りないと指摘されたら、その通りだと思う。だからこれはただの個人的な備忘録である。

 

宇多田の人生の一割も私は知らないけれど、宇多田の歌は私を励ましてきた。私のずっと前を歩む人の言葉に勇気づけられている。こんなふうに泳いでいくこともできると、手本を見せてもらっているような感じ。ひらりとステップを踏むように、簡単そうに見える。全然簡単じゃない。誰にだって全然簡単じゃないって、曲を聞けば分かる。簡単だったらこんな曲は生まれていない。舞踏家の優雅なダンスを見ていると、容易く体を操っているように見えるのと同じ。同じように踊ることはできない。

 

彼女の生活も、親しい人と交わす言葉も知らない。だけど、この歌詞私のために書かれたのか!?ってくらい頬を張られたり光が差したりするこの感覚は嘘じゃない。物語は開かれている。私にとって人生の先達で、こんな風にありたいと思う憧れの人の言葉を、歌という形で受け取ることができる。私だけは私の内に込み上げてくるものを信じる。私は宇多田ヒカルが好きだ。

 

宇多田がライブで産み育ててくれた両親への感謝の言葉を述べるのを、おずおずと聞いていた。まだ分からないと思った。育った環境を恨んだり過去を嘆いたり引きずっていた私は、まだそんなふうに思えないと思った。幕張メッセの全校集会、あなたは私と同じ空間にいた。あなたはそんな遠い所にいるの。あなたははっきりと私とは違う形をしている。そのことが改めてはっきりと分かる。宇多田の言葉はいつも私に成長のきっかけをくれる。

見えない傷が私の魂彩る

「道」の歌詞の本当の意味を私は理解していないだろう。それでも、このワンフレーズがいつも私を奮い立たせてくれる。傷跡は残っているかもしれないけれど、もしかしてもう傷は癒えようとしているのに血を流しているのはカサブタを剥がし続けている私自身のせいかも。そんなに暇じゃない。そんなに時間は残されれていない。子供のままでいられない。私ももっと遠くへ行きたい。大人になりたい。追いつきたい、分かりたい、そんな気持ちで聴く。

 

戸惑いながら受け入れがたい世の中のフツーとされていることを飲み下し、女だからとお茶汲みさせられて男だからと恋人の有無をいじられるような職場をこのくらい、と納得させてズレて軋んでもう取り繕えないところまで来たら仕事を辞めて、こんなこと続けていても良くなんないって分かっていてでもお金は必要だからまたすぐ同じような職場で働いて。物語の情景が浮かぶ曲。創作物は私小説じゃないけれど、祈りの言葉は誰かの生活に差す光だ。血を流しながら書かれたもののように感じてしまう。全然違ってるかな。悲しいけれど、生きていくし、私。傷つきながらでいいんだ、戸惑いながらでいいんだ、と自分を許せると、少し生きやすくて、幸せも不幸も概念でしかなくて、他者と関わって、傷ついて、それでも生きていくことを選択しようと思えるのは、悲しみもあって喜びがあると思えるのは、あなたの書いた曲の助けがあったから。あなたという光を私は受け取った。

 

歌の歌詞は誰に語り掛けられている?詩の朗読、コンサート、その場に相手がいてもいなくても成り立つ。語り掛けられている対象を想像して読むこともできる。私に語り掛けられているのだと受け取ることもできる。誰かの独白を別の次元から聴いているというスタンスも取れる。立ち位置は読むたびに入れ替わるかもしれないし、複層的に捉えるのが取りこぼしがないかもしれない。私の声そのもののような気がするし、知らない人の物語のようで、身近な繋がりの濃い人の言葉にもなる。恋人で、他人で、先生で、先輩で、子で、母で、父で、親友で、ありとあらゆる女ともだちになれる存在。

人知れず辛い道を選ぶ 私を応援してくれる あなただけを友と呼ぶ

この歌詞の「私」を宇多田に今少し重ねることが許されるなら、私は(多分ファンは皆)、いつだってあなたを応援している。あなたの友でありたい、あなたと直接言葉を交わすことがこの先一生なくとも。

 

こんなの、当たり前じゃん、自明のこと、というような内容だと思うけれど、自分のために書きます。私が初めて書いたことではなく、誰かが既に指摘、言及していることも多いと思います。宇多田の曲が出ると、誰かの解釈を読み漁りたくてTwitterGoogleで検索して、いつも、もっと読みたい、もっと書いてくれ、と思うので自分も書いてみたくなりました。飽きっぽいし雑なので、細かく引用のリンクを貼ったり、検討を繰り返して記事を訂正するなどブラッシュアップしていくような運営はできないと思います。たくさんの方のツイートや文章が直接的にも間接的にも私の書くものに影響を与えていることは確かです。元ネタはこの人のこのツイートかな、ということは大いにあると思います。観に行こうかな、どうしようかな、映画館の良い音で宇多田の曲聴きたいな~まだやってるかな?くらいの熱量で、シン・エヴァ観た勢いで書く。