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宇多田ヒカルインタビュー記事など自分用メモ

 

 

<インタビュー>時代、そして自分自身と向き合いながら。ポップミュージックの最前線を更新し続ける、2020年代の宇多田ヒカル | Special | Billboard JAPAN

 

宇多田ヒカル【PINK BLOOD EXHIBITION】レポート&谷川英司監督インタビュー | Daily News | Billboard JAPAN

 

宇多田ヒカル 小袋成彬 酒井一途 座談会

アルバム『初恋』

 

2017

宇多田ヒカル スタッフが語る、活動再開で得た実感「ポップミュージックの価値は目減りしていない」 - Real Sound|リアルサウンド

 

2016.9.30

宇多田ヒカル特集Vol.2―― インタビュー前編 | USENのオウンドメディア「encore(アンコール)」 | encoremode |

 

2016.

宇多田ヒカル特集Vol.3――インタビュー後編 | USENのオウンドメディア「encore(アンコール)」 | encoremode |

 

 

劇場版

EVANGELION.CO.JP

Beautyful World

書き始めメモ

宇多田ヒカルが好きだ。

こう書いたら、宇多田ヒカルの曲が好きなんでしょ、と言われるかもしれない。おまえは宇多田の何を知っているんだ。何様だ。何者だ。私もそう思う。ただの一リスナーだ。しかも、かなりライトなファンだ。宇多田について語る資格とかは特に見当たらない。インスタライブはリアタイしてないし、宇多田が紹介してた本は読んでないし、曲は全然聴かない時期もあるし、全然聴かない曲も聴いたことがない曲もあると思う。それでも私は宇多田の作る曲が好きで、《宇多田ヒカル》が好きで、《宇多田ヒカル》を作り上げている宇多田光本人もたぶんきっと大好きだ。この人が同じ時代に生きていてくれて嬉しい。この人の作品を聴けて嬉しい。できることなら友人になりたい。叩かないで!!!誰しも夢見ることは自由である。OK、憧れや崇拝は友と呼べる存在から最も遠い。尊敬はしても崇拝はしない、分かってるただのファンは友人にはなれない。本当に?てか私は宇多田ヒカルの夢女か?今のところ多分違うと思う。私は地味に地道に私の生活をすることが友となり得る最大限の可能なアピールだ。本当に?もっと読んだり咀嚼してから書くほうがいいんだろうと思う本当に。曲のインスピレーションは宇多田自身の生活や人生から無理なく紐づけられる部分もあるだろうし、TwitterInstagram、インタビューなどから垣間見える部分も心底楽しみにしている、だけれど誰とどんなふうに曲をつくってきたのかとか、肝心なところを私は全然知らない、足りてない。網羅的には書けないし、全くの的外れかもしれないけれど、たどたどしくとも今書けるだけを書いてみたい。好きな人の、好きな作品の話がしたい。

 

宇多田ヒカルが曲から書いて、歌詞を後から音に合うものを選んで乗せていて、音やリズムのほうをきっとまず第一に作り上げているだろうと知ってなお宇多田の歌詞は私にとって特別である。私の音楽の造詣は浅く、尽くす言葉を知らない。なんじゃこの後ろで繰り返されてる物悲しいピンポンパン…て鳴ってる音最高~!明るい感じからだんだん最後不穏な感じになっていくところゾクゾクするぜ…!くらいしか言えない。でも歌詞が美しい、歌詞が刺さると思う時、このメロディー、このリズムと、全ての要素が合わさって私の胸に響いていると思う。明るい曲調に痛みを伴う言葉を、哀しいメロディーにやさしい言葉を乗せて、揺さぶられるようにして、ぼんやりしていた感情/記憶が揺り起こされるような気がする。悲しみを悲しみのまま作品にしようとしたら、それは嗚咽そのもので、曲の形をしていないだろう。そうではなく、宇多田の作品は作り込まれた創作物だ。歌詞は音が曲のなかで言葉に整形され、歌詞カードに載せられてや曲そのものの補助的に提示される。曲自体が本体だと分かっていても、まるで歌詞そのものがもう一つの本体であるかのように、貪るように読んでしまう。このブログで書くことはどうしても歌詞にばかり偏ったものになると思う。

曖昧で停滞した状況、不明瞭にされている自他の境界、霞のように名ばかりの概念に、時に軽く飛び越え、時に明快な線を引くような歌詞は、痛みを伴って私に自覚を促す。嵐の中を抜け出した者だけが辿り着く言葉に、遥か先を歩く存在を思う。宇多田の歌詞は格好良くてちょっとおどけてて、お茶目で、違和感もバランスも素敵だ。私にも分かる言葉で、私にも分かる(はずの)感情を、受け入れられやすい形で(でも不自然さや違和感も感じる、その引っかかりが心地いい)歌詞に落とし込まれている(タイアップ曲とかは、より明快なテーマが削り出されているようなシンプルさを感じる。対するアルバムのみ収録曲はより詩的で難解で、面白要素も多い気がする)。悲しみや痛みを知る人の顔をしていて、取り繕っていないのに演じられていて、嘘は一つもないけれど創作物で、だから絶対に私からは触れられない領域が向こう側に存在していることを感じる。生身の私と作者との間に遠く隔たりがあって、曲は物質じゃなくて手に取ることはできなくて、ほんのひと時寄り添えたと思ったらすり抜けていくようで、永遠に距離が縮まることはない。でもいつだって聴ける。こんなに私と遠くて、私に寄り添ってくれる歌は他に知らない。

 

私は宇多田をもっと知りたい。だけど、宇多田の創作物がいつでも聴けて、既に今知れる手がかりは全て提示されているとも思う。あらゆる手掛かりを読み尽くさずに語るのはリスペクトが足りないと指摘されたら、その通りだと思う。だからこれはただの個人的な備忘録である。

 

宇多田の人生の一割も私は知らないけれど、宇多田の歌は私を励ましてきた。私のずっと前を歩む人の言葉に勇気づけられている。こんなふうに泳いでいくこともできると、手本を見せてもらっているような感じ。ひらりとステップを踏むように、簡単そうに見える。全然簡単じゃない。誰にだって全然簡単じゃないって、曲を聞けば分かる。簡単だったらこんな曲は生まれていない。舞踏家の優雅なダンスを見ていると、容易く体を操っているように見えるのと同じ。同じように踊ることはできない。

 

彼女の生活も、親しい人と交わす言葉も知らない。だけど、この歌詞私のために書かれたのか!?ってくらい頬を張られたり光が差したりするこの感覚は嘘じゃない。物語は開かれている。私にとって人生の先達で、こんな風にありたいと思う憧れの人の言葉を、歌という形で受け取ることができる。私だけは私の内に込み上げてくるものを信じる。私は宇多田ヒカルが好きだ。

 

宇多田がライブで産み育ててくれた両親への感謝の言葉を述べるのを、おずおずと聞いていた。まだ分からないと思った。育った環境を恨んだり過去を嘆いたり引きずっていた私は、まだそんなふうに思えないと思った。幕張メッセの全校集会、あなたは私と同じ空間にいた。あなたはそんな遠い所にいるの。あなたははっきりと私とは違う形をしている。そのことが改めてはっきりと分かる。宇多田の言葉はいつも私に成長のきっかけをくれる。

見えない傷が私の魂彩る

「道」の歌詞の本当の意味を私は理解していないだろう。それでも、このワンフレーズがいつも私を奮い立たせてくれる。傷跡は残っているかもしれないけれど、もしかしてもう傷は癒えようとしているのに血を流しているのはカサブタを剥がし続けている私自身のせいかも。そんなに暇じゃない。そんなに時間は残されれていない。子供のままでいられない。私ももっと遠くへ行きたい。大人になりたい。追いつきたい、分かりたい、そんな気持ちで聴く。

 

戸惑いながら受け入れがたい世の中のフツーとされていることを飲み下し、女だからとお茶汲みさせられて男だからと恋人の有無をいじられるような職場をこのくらい、と納得させてズレて軋んでもう取り繕えないところまで来たら仕事を辞めて、こんなこと続けていても良くなんないって分かっていてでもお金は必要だからまたすぐ同じような職場で働いて。物語の情景が浮かぶ曲。創作物は私小説じゃないけれど、祈りの言葉は誰かの生活に差す光だ。血を流しながら書かれたもののように感じてしまう。全然違ってるかな。悲しいけれど、生きていくし、私。傷つきながらでいいんだ、戸惑いながらでいいんだ、と自分を許せると、少し生きやすくて、幸せも不幸も概念でしかなくて、他者と関わって、傷ついて、それでも生きていくことを選択しようと思えるのは、悲しみもあって喜びがあると思えるのは、あなたの書いた曲の助けがあったから。あなたという光を私は受け取った。

 

歌の歌詞は誰に語り掛けられている?詩の朗読、コンサート、その場に相手がいてもいなくても成り立つ。語り掛けられている対象を想像して読むこともできる。私に語り掛けられているのだと受け取ることもできる。誰かの独白を別の次元から聴いているというスタンスも取れる。立ち位置は読むたびに入れ替わるかもしれないし、複層的に捉えるのが取りこぼしがないかもしれない。私の声そのもののような気がするし、知らない人の物語のようで、身近な繋がりの濃い人の言葉にもなる。恋人で、他人で、先生で、先輩で、子で、母で、父で、親友で、ありとあらゆる女ともだちになれる存在。

人知れず辛い道を選ぶ 私を応援してくれる あなただけを友と呼ぶ

この歌詞の「私」を宇多田に今少し重ねることが許されるなら、私は(多分ファンは皆)、いつだってあなたを応援している。あなたの友でありたい、あなたと直接言葉を交わすことがこの先一生なくとも。

 

こんなの、当たり前じゃん、自明のこと、というような内容だと思うけれど、自分のために書きます。私が初めて書いたことではなく、誰かが既に指摘、言及していることも多いと思います。宇多田の曲が出ると、誰かの解釈を読み漁りたくてTwitterGoogleで検索して、いつも、もっと読みたい、もっと書いてくれ、と思うので自分も書いてみたくなりました。飽きっぽいし雑なので、細かく引用のリンクを貼ったり、検討を繰り返して記事を訂正するなどブラッシュアップしていくような運営はできないと思います。たくさんの方のツイートや文章が直接的にも間接的にも私の書くものに影響を与えていることは確かです。元ネタはこの人のこのツイートかな、ということは大いにあると思います。観に行こうかな、どうしようかな、映画館の良い音で宇多田の曲聴きたいな~まだやってるかな?くらいの熱量で、シン・エヴァ観た勢いで書く。

 

One Last Kiss(少しだけ)

宇多田ヒカルの曲について、タイアップした他の作品との関連も含めて書ける範囲で書きたい。私はエヴァ作品に詳しくない。しかしエヴァとの関係を避けて書けるものではない。でも書きたいから書くわ~~~~~!書いてるうちにインスタライブあって、そこで語られた言葉はまだふわふわとしていて早く感想言いたいけど言葉にならん。ずっとずっと前に生まれた小説や歌や詩や史実がずっと後に生まれた私に届く。

 

One Last Kiss

タイトルについて。最後のキス。キスと言えば多分劇場版のエヴァより前の作品でキスシーンがあったはず。そのシーンが立ち現われてくるのかな。

 

初めてのルーブル

ルーブルはフランスの首都パリにあるルーヴル美術館。『モナ・リザ』を所蔵している美術館である。『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』(以下、シン・エヴァ)の序盤の舞台はパリであり、そこで戦闘が繰り広げられる。美術館の建物であるルーヴル宮殿はもともと要塞として使われていた城であり、AAAヴンダーが砦のように用いられている。ここでは日本語での発音に近い「ルーブル」と表記されており、曲での発音も日本語の音として発音されていると思われる。夢から覚めたような、はっとするような現実に帰っていくような物語のエンディングに、歌詞の始まりの音に「ハ」が当てられていて、息を吐く音とともに止まっていた時間が動き出したような印象を受ける。

 

なんてことはなかったわ

 女言葉を敢えて遣う時、おどけて遣っているように聞こえることがある。女言葉を使う時普段の自分とは少し異なる自分を演じているように感じる。それは上品さだったり、上品さの皮を被った道化のようであったり、物語の登場人物のように、演技するように、何か見せたいイメージを演出するための技巧として用いる。それは、素顔を隠す仮面のような《配役》を連想させる。ここで語り手は《女言葉を使う》という属性を与えられている。

一応、脳内で関西方言で再生してみた(筆者は関西出身)。このフレーズを方言として発声することは可能であるが、敢えて方言で記述する意図を読み取るのは難しい気がする。関西弁のキャラクターが言ってるのを想像している、ということも考えられる?

日本的な《女らしさ》を押し付けられることを苦手と感じていたであろう彼女がそれを逆手にとって女性的な言葉を使う時、それは言い聞かせるような母のような、姉のような、彼女のような、女であることを前提とした役柄を演じている言葉だと思う。のっけから否定して、次に来る言葉の価値を飛躍的に高めている。ただの韻合わせだと思う人もいるかもしれない。ただの韻合わせだと私は思いたくない。

ルーブル美術館という巨大な美の蓄積された場所を「なんてことはなかった」と言ってのける/言い切る豪胆さを感じる。更に女言葉で台詞調となっており、《役》を演じることで、自分に言い聞かせているようにも取れる。

 

私だけのモナリザ

もうとっくに出会ってたから 

 モナリザは言うまでもなくレオナルドダヴィンチの描いた『モナ・リザ』で、微笑を湛え、世代を超えた人々を惹きつけてやまないヴィーナスの象徴である。多くの人々を惹き付ける『モナ・リザ』に対して、ここでは「私だけ」という、真逆のヴィーナスの存在へとスライドさせている。

感動するはずの場所、シチュエーションで、想像していたより揺さぶられることがなかった。『モナ・リザ』が与えてくれたであろう感動は「私」にとっては既知のもので、それを塗り替えるような感動は呼び起こされなかったのだから。

切なくなるほど私の全てを包容してくれるような笑みを私に向けてくれる人は

なぜ?と自分に問い掛けているようにも思える。

 

初めてあなたを見た

あの日動き出した歯車

止められない喪失の予感 

 「初めて」でモナリザを見た時と「あなた」を見た時とを重ね、「あなた」との出会いを思い出している。

素直に普遍的なテーマに引き付けてみる。人はいつか死ぬ。出会いには必ず別れがついて回る。始まってしまった舞台は幕が下りるまで動きを止めることはないだろう。ゼーレのシナリオという演目に、「運命の歯車」という慣用句を想像させ、登場人物達が歯車そのものであるようだし、「歯車」という言葉に舞台装置を連想する。監督も宇多田も関係者全てが役者であるかのような解釈される余地を産む。永遠に絵の中に生きるように見えるモナリザと、既に失われている(この時点では不確定)/「喪失の予感」を覚えている「あなた」の対比。

 

ユイと出会ってしまったが故に、ゲンドウは喪失を知る。

自己の存在故に、碇家を目にした故に、本来自分にもあるべきはずの親の存在を想像し、喪失を感じて生きるアスカ。

エヴァに乗ることを自ら選んでいるようで選ばざるを得ないシンジを知ってしまったが故に、身代わりになる以外の選択肢がなくなった綾波

 

もういっぱいあるけど

もう一つ増やしましょう 

(Can you give me one last kiss?)

 忘れたくないこと

()を飛ばしてそのまま読めば、もういっぱいある「忘れたくないこと」をもう一つ増やしましょう、と読める。()内をぎこちなくも日本語に置き換えると、最後のキスをくれる?最後にもう一度キスして?と言えるだろうか。()内を地の文と結びつけると、「もう一つ増やしましょう」と言っている《最後の》「忘れたくないこと」は「(one last )kiss」である。「もう一度」というニュアンスから、これまでに交わされた数えきれない/「私」にとってはそもそも数えないような日常的な行為であろうキス、またそのような行為をする関係が背景として立ち上がってくる。「忘れたくないこと」=キスではない。「あなた」との/「あなた」に関しての「私」の持っている数々の思い出=「忘れたくないこと」であり、あくまでプラス1、幸福な思い出を追加しようという提案である(懇願のようでもある)。曲の軽快なリズムも重なり、湿っぽい濃厚なラブロマンス的別れのキスではなく、もっとあっさりしたキスだよね。この後やることあるし、急かしてるわけじゃないけど、時間は限られている。悲壮感のない笑顔でキスしよう?って。晴れやかでポジティブなキス。相手に罪悪感を背負わせない別れの正解ってこういうことなのかな?

ここで『First Love』の歌詞「最後のキスはタバコのFlavorがした」と結びつけるのは強引な気がする。葛城ミサトは煙草を吸うし、シンジとキスするし、重なるけれど、それは一瞬で、「なーんかあの時のこと思い出しちゃった」みたいなものだとしたらありだと思う。

地の文と()は分けられており、前者は独白のような意志表明であり、()内は相手を想定した問い掛け、そして実際に口にすることはない言葉、言えないけど言いたかった言葉として響いているように思う。

 

Oh oh oh oh oh...

忘れたくないこと

Oh oh oh oh oh...

I love you more than you'll ever know 

 Aメロ→Bメロ→サビへと移るにつれ、具体的な事物から抽象度が上がっていくような構成。具体から抽象へ、帰納的な展開。

速めのテンポに合わせた息継ぎのような部分。本当に言いたいことは言葉にならない。あなたに本当に伝えたいことは、言葉にしてしまうと途端に陳腐で嘘くさい。愛の歌は、こんなふうに歌うんだと。歌そのものの、歌が剝き出しの部分。Bメロから既に体を揺らしてしまうのだけれど、「Oh oh oh oh oh...」サビは踊りだしたくなる。舞い上がってしまうような心地。

 

「写真は苦手なんだ」

ここで「」が使われていることで、この部分以外が全て発話ではないという可能性が出てくる。()内は直接語り掛けた言葉ではなく、心の中で語り掛けた言葉であると区別できる。ここで「」内は実際に発話された言葉で、()内は伝えたくても伝えられなかった言葉/「私」が内に秘めた言葉と読み取ることもできる。

 

でもそんなものはいらないわ

ここで1の歌詞と同様に女言葉。女言葉なのか?例えば「いらないや」では違うだろう。男と女の会話のようにも取ることができるが、上記の歌詞のみ「」で括られている。誰かの語りを思い出して後から(或いは対話ではない形で)否定している。

 

 

あなたが焼きついたまま

私の心のプロジェクター

そもそも男が女言葉を使ってもいい。そこは、誰の言葉なのか、誰の視点なのかはあまり重要ではない気がしてきた。覚えておきたい言葉を聴いた時、脳内に焼き付けたとか心のレコーダーに録音したとか言うけれど、宇多田流にここではこう表現したということだろう。ここではただ単に嬉しくて、というよりなんの感情も見出せない。写真を撮りたい、何か形にして残したい、生きた証みたいなもの?あなたといた時私にあなたが見せてくれた表情を?写真じゃなくていい、ずっと消えないで残っているいて、いつでも再生可能なのだ。

 

寂しくないふりしてた

まあ、そんなのお互い様か

ここでもやっぱり特定の誰かが想定されている一対一の関係として描かれる。過去形。終わってしまったことを振り返り、さっぱり諦めに似た言葉で締めくくる。

 

誰かを求めることは

すなわち傷つくことだった

前述の「お互い様」な二人について、或いはそこから離れた格言めいた言葉。誰かを求めるほどに自らの孤独がより浮き彫りになっていく。「一人で生きるより 永久に傷つきたい」(誰にも言わない/宇多田ヒカル、2020)と傷つくことをよしとする言葉と地続きに、誰かといる/近づこうとすることは他者がより一層他者であることを知ることに他ならない。連想するのはDistance(宇多田ヒカル、2001?)で、(theyにあたる日本語の三人称ってなんて言うのだろう)宇多田は長く自他の距離をいろんな形で書いている。Distanceでは相手の孤独を埋められない事実と寄り添うことはできるという苦しみを見つめるしかない遠い距離を感じるけれどそばにいるよという愛を歌っているとするなら、One Last Kissは主体が他者を求めていることにより自覚的である。主体が自身の傷に自覚的にであること、そのことを勇敢にも明言していること。このことに泣きたくなるほど愛しさが込み上げてきてより読者(聴き手?)である私に近しみを抱かせる。孤独を感じているのはこの文の主体。そこまでさらけ出してくれるんだと、心の声を聞いたような感覚。描き方の違いもはっきりしているし、もう少し丁寧に書くべきだが、乱暴にも繋げると、孤独と他者との距離というテーマ(他にもっと良い言い方があるかも?)に沿って見ると、明らかに『Distance』以上に主体の深い内省を描き、『誰にも言わない』以上に主体の心境との距離が近い。口に出して言いたいこと/伝えたいこと、より心の裡に思っていることに近いという感じ。雑に書いてしまっている気がする。『Distance』『誰にも言わない』について改めてちゃんと書かないと雑なままだ。私はそれぞれをそれぞれ愛している。ファンの皆様もそうだろう。許してほしい。

この歌詞の意味を認識した時の衝撃といったらない。確信と諦めと過去形と事実と認識と、エヴァと、宇多田と、煮るなり焼くなり好きにして。多分私は何もわかってないと思う。

 

燃えるようなキスをしよう

この後またサビの前のメロディーがきて、盛り上がっていくのだけれど、血とか、熱とか、爆発とか、怒りとか、喜怒哀楽とかちゃんとした(ちゃんとした?)感情とか、相手からも返してほしいという要求であり提案であり懇願であるようなイメージを抱いた。どんどん盛り上がっていく曲に乗ってお通夜みたいなくせに楽しい気分になる泣き笑いしたくなる。

キスって二人いないとできない?それとも一人でもできる?椅子やリンゴには人一人でもキスできるけど、「燃えるようなキス」は二人以上いないとできない気がする。だからここではそう解釈する。ていうかずっとミサトさんのこと考えてる。カラオケで何度も見たシーンが一番思い出されるからかな。「燃えるようなキス」だけだったらBe My LastのMVのカップル役の二人のキスシーンを思い出した。関係ないかもしれないけど。

血とか書いたけど、もしかして全然違って、相手に熱が移るようなキスのことか?冷たい唇に熱が移って燃え出すような。それもちょっと飛びすぎか。

 

MV良すぎる問題についてとか曲のリズムの話とか音楽的なところはよく分かってないから音楽家、プロデューサー、編集者、演出家としての宇多田ヒカルについて私は書くことができない。なんか最高としか書けない。歌詞のことばかり、私じゃなくても書けるものでしかないのかもしれないけれど、備忘録的にも書いていきたい。シーツか毛布被ってオバケの仕草するところめちゃくちゃ好き。

 

注記

私はエヴァーについても、宇多田についても、濃ゆく詳しくはありません。宇多田の作品が好きなファンの端くれです。間違いも多くあるかもしれません。